成羽愛宕大花火の歴史
年 号 出  来  事
1881 明治14年 地元有力者、成羽壮年団により再興
成羽在住の有力者(土田林造・村瀬兼太郎・新海実造等)が、地域花火の伝統が消えることを惜しんで、その復活に努力し、明治14年(1881)再興された。
当時、明治14年7月5日の「山陽新聞」に「花火広告。打揚ゲ180本。カラクリ2組。備中成羽白谷ニテ、18日興行ス。四方ノ諸君、来観アランコトヲ乞フ。成羽花火組合、敬白。」の記事が載っている。
以来、伝統の花火は、成羽壮年団(下原区のみ)の年間事業として、青壮年の手によって、花火の作製や資金の調達なども行われた。大正十年ごろの記録によると、青壮年の奉仕人員延250−300人、総経費700円となっている。観覧席は、特別席と一般席に分けられ、特別席は道上に、一般席は道下の川原に設けられ、それぞれ、持参の御馳走を食べながらの、ゆったりした花火見物であった。
1922 大正11年8.5 愛宕神社大煙火開催
愛宕神社大煙火 奉納申込連名簿あり 世話人中村布寄 前原菊三郎代からのもので47名の寄付金 連名1人2銭〜10銭 計2円54銭也 下原中ノ丁 伊藤和雄所轄を商工会に譲受た
毎年花火は開催されたものであるがこの資料より外は不明
1927 大正15年7月25日
午後5時頃
白谷水車小屋で準備中に爆発し死者4名がでる大惨事にて中止 成羽独特の『カラクリ』の秘法書など焼失した
大煙火製造中爆発 大惨事起こる
4名即死 平松研一、間野林一、佐藤常夫、市川忠一、重軽傷18名
負傷の1人都築良一の談 花火当日あと5日 殆んど製造も出来仕上げ中 白谷小屋で引火し易い製品を取り落とし爆発 これが近くの製品原料に引火し第2回目の大爆発で惨事が起きた
1929 昭和4年7.29 下原壮年団により再興 成羽町商工会は応援
成羽名物として古くからその名を知られたる愛宕神社奉納煙火は先年の不慮の罹災者ありたる以来中断の姿に在りたるも、本年は下原壮年団による躍期、成羽町商工会の応援により7月29日夜、白谷蹟に於いて挙行したり。
最初の程は夕立の為、人出は少なかりしも、雨止むに従い観客が織るが如く。直ちに蹟は人出を以って埋められ、岡山、四国辺の商人も開店し非常の賑いを呈せり
揚火50発、中でも尺玉、引先の変化、採光雷、鳴乱、発月世界、錦光の変化は大音響を発し、中空高く炸裂して壮観を呈し、仕掛けの飛爆、藤棚、玉簾、百花爛漫は美観いはむたなく観覧者を喜ばしめたること限りなし
霧こもる夜半に至り予定のプログラムを終りて散会したり
因に今後は成羽煙火の再興を期せむとする計副あり
1930 昭和5年7.18 愛宕神社奉納煙火
7月18日(旧6月23日)夜は愛宕花火に相當 し名物成羽花火を復活すべく壮年団、商工団 協議を凝らしたるも飾りに時期切迫し予期の目的を達する能はず
只揚火数十発を打上くるに止めたるを以って 観客殆どなく寂しき花火に終りたり
成羽名物として古き歴史を有する愛宕花火を近年の如き不振に委するは遺憾な萬なるを以って願わくは今より来年の計画を立て夏の夜を賑やかす成羽煙火の復興を希望するや功なり
1931 昭和6年8.6 愛宕神社奉納煙火
愛宕神社遷宮式と花火大会
8月6日午前10時より社殿の大修築を加えたる愛宕神社の遷宮式を行い、多数の列席し神宮3名により厳かに祭事行われ、事業報告あり、参拝所順次玉串を奉献した。
夜は下原壮年団の奔走により白谷磧に於て50数発の煙火を揚げ、殊に郡蜂、瀑布、百花繚乱の仕掛け花火は観衆を喜ばした
昭和6年(1931年)社殿大修繕等の守護札がある
昭和6年守護札には顧問男爵 山崎治敏、町長 原田龍右二門、龍泉寺 松野智照、大世話人 渡辺公一、丸浜平八郎、三村多吉、平松梅吉、秋岡民三郎、黒川茂作、黒川政五郎、中野仁助、成羽町大成会、消防組頭 秋岡喜三郎等が記されている
1932 昭和7年7.26 愛宕神社奉納煙火
7月26日は陰暦6月23日 愛宕神社祭例に當たるを以って成羽町商工会及び愛宕神信者主催して白谷磧にて揚火
昼の部20本、夜の部50本、仕掛け
@太平洋防空飛行戦
A満州新城の夜景
B吉野桜の煙火
を奉納し盛況を極め、翌27日は神社参拝者に福引き景品を進呈し一面各商店は安売りを行い不景気の中景気を添えたり
1933 昭和年8.14 愛宕神社奉納煙火
8月14日(陰暦6月23日)愛宕神社奉納煙火は成羽町商工会主催、中国民報成羽支局&昭和時報社後援の下に昼夜連続して揚げ、夜分は納涼見学に来る者萬余
白谷磧は全く観衆を以って埋めつられ、近年になく盛況を呈せしも、10時過ぎより降雨ありて混雑裡に中止のやむなくに至り、残りは翌日も打揚げたり
1934 昭和9年8.3 愛宕神社奉納煙火
8月3日例年の通、白谷磧に於いて愛宕花火を揚げ盛況を呈したり。
1935 昭和10年7.23 愛宕神社奉納煙火
1936 昭和11年8.10 愛宕神社奉納煙火
1937 昭和12年7.31 愛宕神社夏祭り 花火はしていない
1949 昭和24年7 創生会、花火を打上げる
成羽町商工会の青年中心の創生会、花火を打上げる
(復興成羽愛宕大花火のさきがけ)
柳井寧治、藤井真一両氏を中心とした福西光男、今井理喜三、渡辺広夫、藤井和夫、松本らの手により商店より1本づつ花火の寄附を願って愛宕大祭の日に花火50本を上げた
1950 昭和25年8.6 成羽町、成羽町商工会、備北乗合葛、催により成羽川河畔に移して再興
備中名物成羽愛宕大花火復活開催
成羽商工会では宝永年間より270年の伝統があり昭和11年まで商工会等の主催により毎年実施し、昭和12年の支那事変の勃発により中断していた愛宕神社花火を復活させた
戦後の町興し運動を目途とし、場所も白谷蹟から広大な成羽河原に移し、成羽町および備北バスの共催をあおぎ、名称も備中名物成羽愛宕大花火と改め、本格的大規模花火とし、以後毎年実施することとした
打上花火尺玉等200本
仕掛花火
@五色の朝顔、棚に蜂、猪、熊の乱舞
A変色富士に降雪、後の雪景色
B成羽煙火大会の景
4.白谷より成羽川に躍りこむ遊鱗の景
協賛行事
@夏の市連合大売り出し A新中野球大会 B一般野球大会 C芸能コンクール D生花大会 Eピンポン大会 F招待映画大会 G懸賞付町内装飾 H慰霊祭(大15.7.25の惨事に対して)
予算35万円(成羽町15、商工会15、備北バス5万円)
備北タイムス 特集成羽花火の復活 全1ページ
成羽花火の由来を訪ねて
小林政五郎(成小教)が誌した愛宕花火 製造の 薬の調合、大カラクリ、揚火、観覧、藩政廃止後
成羽町長平松幹章=成羽花火の復活に寄す
成羽町商工会長大東伊三郎=「町興し運動」の火口に
村瀬達三、丸濱哲五郎、渡辺順次対談から
成羽花火の特色、花火の家元のことなど、秘伝あれこれ
成羽花火の考、成羽花火催場図、大正15年花火惨事、商工会役員名、評議員名全、商工会等の広告43あり
1951 昭和26年7.26 成羽町、成羽町商工会共催により開催
名物愛宕花火は昨年復活、大花火として成羽商工会に於いて盛大に催されたのである。
本年は成羽町、成羽商工会の共催を以って昨年に倍し挙行、
しかも本年は愛宕花火独特の綱火、蜂、シャグマを配した仕掛け花火を現わして水中に浮かべ、夏の夜を成羽川の清流に、絢爛たる絵巻をくりひろげ伝統ある愛宕花火を再現した。
昼間の色々の催物と共に、近年にない盛大なものとして開催した。
予算40万円(成羽町20、商工会15、備北バス5万円)
成羽町史より、成羽町商工会資料より

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