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山崎藩の番所があった境谷にある碑
境谷にある個人が建てた碑
江戸時代に、境谷に山崎藩の番所があり、天領の吹屋から銅を出す高瀬船から交通料を 貰っていた。
碑の内容
江戸末期に、両国の花火大会に 成羽の花火を披露するために、西平家が田畑を売って費用を支援したと書いてある。

成羽の継船制
「継船制」は、成羽川の高瀬舟交通の「船法」として定められていた高瀬舟運航の「掟おきて」で、成羽川を交通する舟は、上り・下りとも成羽川の河岸舟着場で、積荷を積み替えなければならないという規則でした。
渡雁船頭集落の対岸、江戸時代に松山藩と成羽藩の藩境であった境谷に「津留つどめ」という役所を置いて成羽川を航行する高瀬舟の積荷を検査しました。

今の税関にあたるこの役所が「境谷番所」と呼ばれ、国道313号備北バス境谷停留所として現在も昔を偲ばせています。
最近地元郷土史家の発起で「山崎藩船番所跡」の石碑が建てられています。
船頭の綱紀粛正を中心に藩の政治的統制を徹底したこと、船業者の既得権を保護保証したこと、運上金(営業税)や口銭(手数料等)収入で藩財政が豊かになったこと等、成羽川河岸から急に川幅が狭くなって上流への運航は「軽枯かんこ船」のような小型舟しか交通できないという自然条件にも恵まれた「継船制」によって、成羽河岸は諸物資輸送の中枢集散地として大変繁栄しました。

戦前まで愛宕花火の会場だった白谷
白谷に 花火製造小屋があり、 江戸時代から戦前までは、白谷で旧暦の6月(愛宕神社の夏祭り)に  行われていた。


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