鶴首城跡
鶴首山の山頂にある鶴首城跡
子供の頃は何度も登ったことがあったが、大人になってからは初めてである
登り口の太鼓丸公園から太鼓丸までは15分
さらに25分で頂上に、合計40分で到着
運動不足でかなりしんどいが頂上に着くと疲れは吹っ飛んだ
『鶴首城跡に登ろう会』によってきれいに整備されている
なお成羽城(鶴首城)は毎年成羽愛宕大花火の仕掛花火にて再現されている
成羽美術館を山側に行くとこの看板がある 成羽小を右手に登って行くとこの看板がある
太鼓丸公園にはアスレチックがある
ここがスタートだ 登山入口に鶴首城跡のパンフレットが置いてあるが、たいがいくなっている
ここに来る前に、成羽美術館斜め前のなりわ観光協会の案内所に行って貰っておくこと
しばらく登ると休み堂がある
もう少し登ると太鼓丸がある
ここで山崎のお殿様の時代に、時を知らせる太鼓を鳴らしていたそうです
ここから険しい道になる 竹の杖を用事してあるので借りて帰りに返します
きれいに整備されています
だんだん道が悪くなります
馬場に到着
もう少しだ
思ったより広いし、よく保存されている
二の壇からしか見渡せれない
武士の池の看板はあるが行けそうもない



河村四郎秀清
意外に石垣が残っている
石垣が残っている
鶴  首  城  址
 平安末期、陸奥平定に功績があり、源頼朝より成羽の地を恩賞せられ、当地の地頭職(後の守護)に任ぜられた河村四郎秀清が、文治5(1189)年に築城したと伝えられる成羽町下原の鶴首城は、標高338m鶴首(頸)山頂にある。
 本丸(一ノ壇)は東西33m、南北23mあり、主郭七ノ壇の大規模な連郭式山城である。
 近隣の山城の中では、築城年代が最も古く、当地方きっての由緒ある古城の原形が遺っている。
 戦国時代の天文2(1533)年、星田から成羽へ進出した三村家親が、この城砦を堅固に増補構築し、当城を拠点として備中制覇をめざした。戦国大名三村一族の興亡は、『備中兵乱』として世に名高い。
 永禄4(1561)年、家親、元親父子が備中松山へ進出した後、三村親成、親宣父子が鶴首城に入城し、親成が城主となる。
 永禄9(1566)年、家親が宇喜多直家に謀殺された後、親成、親宣父子は、三村一族であるにもかかわらず離反して、宇喜多と和睦した毛利につく。そして毛利軍の先陣となって、三村一族の城を次々と攻め落として行く。(国吉城、鶴首城、楪城、荒平山城、鬼身城、松山城、常山城)
 鶴首城守主三村左馬允(さまのじょう)親重は、200余騎を随え城を守り、毛利軍と攻防戦を展開したが、カ尽き、天正3(1575)年1月1日落城する。
 天正3(1575)年、三村親成、親宣父子が再び鶴首城に入城し、城主となるが、城の実戦価値は薄れて行く。
 慶長5(1600)年、関ヶ原合戦で徳川方に属して戦い、その功績により備中成羽で知行7,000石を得た岡越前守家俊が鶴首城の城主となるが、慶長19(1914)年大阪の陣が起こると、家俊の長男が大阪城に入って徳川勢と戦ったため、大阪落城後、嫌疑を受け、家俊は切腹させられた。
 元和3(1617)年、成羽藩主となった山崎甲斐守家治が若桜より入部したが、「一国一城」制により、鶴首城は廃城となった。山崎氏は鶴首山麓に壮大な御殿を造営して住み、幕末維新を迎た。
鶴首城址に登ろう会
鶴首城跡のパンフレットPDF


back



成羽愛宕大花火の仕掛花火にて再現された成羽城(鶴首城)