山崎氏御殿、成羽陣屋跡
山崎氏五千石の御殿で、万冶元年(1658年)成羽領主として丸亀から入部した山崎豊治(後期山崎氏初代、旗本交代寄合格)が築造営し、以来11代210年間明治維新まで山崎氏の本拠となった。
御殿は鶴首山麓に北向きに築かれ東西約276M、南北約90M(巾の広いところ)の広大な敷地で巨大な石垣を構築した豪壮な居館である。
正面に東から御作事門、大手門、御庫門があり、外側に外園、御下馬、的場、労役場、お堀がある。
屋敷内は御作場、書院、御庫の三区割になっている。
石垣の積み方は「打ちこみはぎの扇の勾配」に近い積み方と「野積み」の二様となっている。
石垣の高さは高いところで390cm上手の低いところは260cmである。
西の御庫のある石垣が「野積み」で前藩主の水谷勝隆が築造したところであり、山崎豊治がこれを引継ぎ広大な規模の御殿とした。
諸大名の御殿におとらぬものであり、山崎氏の力の偉大さを知ることが出来る。
成羽町教育委員会の看板より
「山崎氏御殿跡」
大手門桝形遺構想像鳥瞰図
山崎氏御殿跡は初代豊治が築造した御殿で、築造にあたり、武者走り、石落し、はざま、櫓、石垣の曲り、桝形などが組み入れられ、外敵の攻撃を防ぐ配慮がされ、城郭を思わす広大堅固な御殿である。
豊治は特に大手門に力を入れたようで、両側の石垣には大きな石が使われている。
大手門は桝型構築で桝形をとり囲んで、正面(北側)に高麗門、南面、西面にカギ形に石垣、東面に櫓門をつくり守りを固めていた。
明治時代に取り壊され、現在は見ることはできないが、威厳のある立派な構えであったことがうかがえる。
平成5年4月に成羽町美術館建設のため成羽町文化財専門委員会は大手門桝形遺構の発掘調査を実施する。
その結果カギ形の石垣残部や櫓門跡が確認された。
桝形の広さは南北に430センチメートル、東西に540メートル、石垣の巾は90センチである。
大手門桝形は、外敵が門を破って侵入しても直ぐには御殿内(城内)に入れず楼門の番兵が弓矢、鉄砲を打ち外敵を倒し、撃退する構造になっている。御殿では余り見られない貴重な構造である。
下記の想像図は調査結果、城郭文献、大手門の石垣などを資料にして制作した鳥瞰図である。
成羽町教育委員会の看板より
山崎氏御殿跡
江戸時代、成羽藩の山崎のお殿様は御殿を造営した。今でも立派な石垣が残っている。
御殿の跡に成羽美術館、成羽地域局、成羽小学校が建っている。どんだけでかい御殿だったか…
山崎氏御殿武者走り跡
江戸時代、成羽藩の山崎のお殿様は御殿を造営した。
今でも成羽小学校の石垣に武者走りが残っている


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