成羽愛宕大花火を始めた
成羽藩山崎候について調べてみました

山崎候と瑞光院(ずいこういん)
山崎候と瑞光院(ずいこういん)の関係を少しややこしいので表にしてみました。

山崎候と瑞光院(ずいこういん)の歴史
瑞 光 院 山 崎 候
1613年(慶長18年) 鳥取県の若桜藩初代藩主:山崎家盛が父、祖父の菩提を弔うために、浅野長政の別邸があった場所(現在の京都市瑞光院前町)に瑞光院を開創(もともとは朝野稲荷があった)
1614年(慶長19年) 山崎家祈願寺 家盛が亡くなり家治が跡を継ぐ
1614年(慶長20年)
1615年(慶長21年)
山崎家祈願寺 家治は大阪冬、夏の陣に参戦
1617年(元和3年) 山崎家祈願寺 家治は大坂両陣の戦功により成羽藩初代藩主になる
1617-1638年 山崎家祈願寺 成羽藩時代
築城の名手(江戸城外堀の石垣構築、大阪城天主の石垣構築)
寿覚院建立、龍徳院建立
1639年(寛永16年) 山崎家祈願寺 家治は天草藩初代藩主になる
1641年(寛永18年) 山崎家祈願寺 家治は丸亀藩藩主になる
1657年(明暦3年) 山崎家祈願寺 山崎家は無嗣断絶で改易となる
1657年(明暦3年) 山崎家の代わりに赤穂藩主浅野家の祈願所となる(浅野家は毎年、供米100石を寄進している)
1658年(明暦4年) 浅野家祈願寺 分家の山崎豊治は交代寄合として成羽陣屋で復活する
1669年(寛文9年) 浅野家祈願寺 三次藩浅野家に阿久利姫誕生(浅野長治の側室:お石(山崎の女)の三女)
1683年(天和3年) 浅野家祈願寺 三次藩浅野家の阿久利姫と浅野内匠頭(長矩)が婚姻
1701年(元禄14年) 松の廊下にて刃傷事件 
1701年(元禄14年) 浅野内匠頭が切腹後、短刀と衣冠を埋め供養塔が建てられる  
1702年(元禄15年) 赤穂浪士の討ち入り 
1703年(元禄16年) 院主宗湫和尚は、密かに宗海禅師を江戸につかわし、切腹2日前に赤穂義士たちに会って遺髪や書状を持ち帰ります。赤穂浪士46人の遺髪が埋葬され遺髪塔が建立された  
1719年(享保4年) 義士17回忌に赤穂浪士の墓碑が建立された  
1853年(嘉永6年) お寺の再興の碑が建てられた  
   
1962年(昭和37年) 都市計画により、現在の山科区安朱に移転した 
わかったこと
瑞光院二世:陽甫が、播州赤穂藩主浅野内匠頭(長矩)の夫人:瑤泉院(ようぜいいん)の親戚(瑶泉院の母:寿光院は陽甫の姪)にあたることから浅野家の祈願寺になる。と殆どの解説に記述されていますが、 山崎家断絶後(分家が成羽藩で復活している)、浅野家の祈願寺となった時にはまだ阿久利姫と浅野内匠頭(長矩)がまだ婚姻していなということから、元々浅野家の京都の別邸があった場所に山崎候が祈願寺瑞光院を創建したことから、ずっと以前から親族付き合いをしていたのであろうと推測される。

瑞光院の赤穂義士四十六士遺髪塔

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