成羽藩山崎候の江戸上屋敷の考察 |
前項の考察から、成羽藩を立藩した前期山崎候時代に『愛宕下』に江戸上屋敷があり、後期山崎候時代に丸亀藩から成羽領になった時に『麻布一本松』に移転していたことがわかりました。よって恐縮ながら過去の書籍の訂正をお願いしたいと思うしだいです。 |
@「成羽史話」の成羽藩山崎候の江戸上屋敷の位置の訂正 |
「成羽史話」著者竹内明照 昭和39年 成羽町教育委員会発行に 『明治2年(1869年)豊治以来の交代寄合(五千石)は、ここに一万二千石の大名に昇格、成羽知行は成羽藩となった。そこで江戸屋敷も麻布西町に改められた。』(P172) と記述がありまして、それを参照していくつかの三百藩総鑑や大名総鑑の山崎家に記述されていますが間違いであると思われます。 大名武鑑によるとほぼ毎年出ていて最後は明治2年頃になりますが、1869年の明治2年武鑑によるとすでに石高が5000石から12350石になっていますが、上屋敷は麻布一本松と記載されています。 |
1869年 明治2年 官許列藩武鑑 国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開情報保護期間満了)資料より ここから再立藩 上屋敷:麻布一本松 |
『明治期に麻布西町に改められた』と書かれていますが、考察してみましょう。 これはGoogle地図より昭和31年の地図です。江戸古地図と合わせてみると、山崎候の上屋敷は紫のラインで書かれた部分になります、もともと麻布西町から麻布本村町にまたがっていて、がま池辺りは麻布本村町です。これは、昭和になってからの地名で、江戸時代には広く『麻布一本松』でいいのではなかろうかと思います。 |
江戸時代の『愛宕下』が現在の新橋、西新橋、虎ノ門、愛宕町にまたがる様に(ネット「江戸武家地研究への試みー芝愛宕下をめぐってー小沢詠美子」より)、江戸時代の麻布一本松は広い地域だったそうで、後期山崎候の上屋敷はもともと麻布一本松で明治期に移転はしていないように思います。麻布一本松のままのようです。 |
A「成羽史話」の成羽藩山崎候の江戸上屋敷の位置の訂正 |
「成羽史話」著者竹内明照 昭和39年 成羽町教育委員会発行に 「山崎氏の江戸屋敷は愛宕下の麻布(通称一本松)にあった。」(P127) と記述がありますが間違いではなかろうかと思います。 |
江戸古地図と武鑑による成羽藩山崎候の江戸屋敷の考察でわかったように、成羽藩を立藩した前期山崎時代に愛宕下に江戸上屋敷があり、丸亀藩から成羽領になった時に麻布一本松に引っ越しをした。 これをごちゃ混ぜにした記述であり訂正をお願いしたいと思います。 |
成羽藩山崎候の歴史 |
成羽藩山崎候の江戸屋敷の考察:位置@ |
成羽藩山崎候の江戸屋敷の考察:大きさA |
成羽藩山崎候と愛宕花火 |
成羽藩山崎候の江戸屋敷の訂正 |
愛宕花火の参考文献 |
B「成羽町史」の成羽藩山崎候の江戸上屋敷の位置の訂正 |
「成羽町史」通史編 成羽町史編集委員会 平成8年発行に 「江戸屋敷は、かつて山崎氏が丸亀藩主(五万石)であった当時のものを、そのまま引き継いでいて拝領して使用している。すなわち、江戸上屋敷(東京麻布愛宕下)は旗本山崎氏には不似合な広大な敷地である。」(P182) と記述がありますが間違いではなかろうかと思います。 |
江戸古地図と武鑑による成羽藩山崎候の江戸屋敷の考察でわかったように、成羽藩を立藩した前期山崎時代に愛宕下に江戸上屋敷があり、丸亀藩から成羽領になった時に麻布一本松に引っ越しをした。 これをごちゃ混ぜにした記述であり訂正をお願いしたいと思います。 |