成羽愛宕大花火を始めた
成羽藩山崎候について調べてみました

山崎候と愛宕花火  Wikipediaより
年  号 時  事 お  城 山崎候 主  君
宇多源氏佐々木氏の支族 官位従五位下 柳の間 近江衆 山崎賢家 六角義治
 佐々木憲家が源頼朝に近江国犬上郡山崎の地頭に補せられ山崎を称した
永禄6年(1563年) 観音寺騒動 六角氏と敵対 近江衆 山崎賢家 六角義治
永禄11年(1568年) 信長が六角領内へ侵攻 近江衆 山崎片家 六角→信長
 六角家を見限り信長の家臣となる 賢家→片家名を改める
元亀元年(1570年) 姉川の戦い 近江衆 山崎片家 信長
元亀4年(1573年) 京都の上京焼き討ちと二条城包囲 近江衆 山崎片家 信長
元亀4年(1573年) 将軍・足利義昭の槇島城を攻めた 近江衆 山崎片家 信長
元亀5年(1574年) 浅井氏攻め 近江衆 山崎片家 信長
天正三年(1575年) 長篠の合戦に出陣 近江衆 山崎片家 信長
天正10年(1582年) 本能寺の変 近江衆 山崎片家 信長→光秀→秀吉
 安土の自邸を焼き払い、居城の山崎城へ籠もった。しかし明智光秀の圧力を受けて降伏。一時は佐和山城の占拠などに協力したが、光秀が羽柴秀吉によって討たれると、すぐに秀吉に降って所領を安堵された
天正10年(1582年) 三田城主2.3万に移封 摂津国三田城 山崎片家 秀吉家臣
天正12年(1584年) 従五位下志摩守に叙任 摂津国三田城 山崎片家 秀吉家臣
天正15年(1587年) 九州征伐 摂津国三田城 山崎片家 秀吉家臣
 秀吉本陣の脇備として1000人を動員 九州征伐の終了時には、石田三成・長束正家・小西行長らとともに、荒廃した博多の復興を担当する奉行として任命されている
天正16年(1588年) 聚楽第行幸 摂津国三田城 山崎片家 秀吉家臣
天正16年(1588年) 加藤清正が肥後国に入国 摂津国三田城 山崎片家 秀吉家臣
 加藤清正が入国時の妻子は山崎片家の子女、清正の養子は片家の子の百助
天正18年(1590年) 小田原征伐 摂津国三田城 山崎片家 秀吉家臣
 1000騎を率いて従軍する
天正19年(1591年) 片家が死去したために跡を継 摂津国三田城 山崎家盛 秀吉家臣
文禄元年(1592年) 朝鮮出兵の任務 摂津国三田城 山崎家盛 秀吉家臣
 家盛は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に対馬国に渡り、2年間輸送、肥前名護屋城西ノ丸の警護も命じられるた。
慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦い田辺城の戦い 摂津国三田城 山崎家盛 秀吉→家康
 田辺城の戦いは膠着状態のまま帰結 石田三成の挙兵を下野国小山にいた徳川家康に伝える 輝政の室で家康の娘である督姫を大坂から脱出させた 戦後、家盛は西軍に与した罪により改易されそうになるが、義兄の池田輝政の尽力
慶長6年(1601年) 因幡若桜3万石に加増転封 因幡若桜城 山崎家盛 家康
慶長8年(1603年) 江戸城の手伝い普請 因幡若桜城 山崎家盛 家康
慶長18年(1613年) 瑞光院創建 因幡若桜城 山崎家盛 家康
 家盛が大徳寺の琢甫(たくほ)和尚を開山者として建立した寺院です
慶長19年(1614年) 大坂冬の陣 因幡若桜城 山崎家治 秀忠
 中之島に布陣 弟の久家が戦死
慶長20年(1615年) 大坂夏の陣 因幡若桜城 山崎家治 秀忠
 池田利隆隊に属して戦い、首級を6個挙げる活躍
元和3年(1617年) 備中成羽3.5万石に加増転封 備中成羽藩 山崎家治 秀忠
 大坂の陣の戦功により 成羽時代には連島新田開発などに尽力した。築城の名手
元和6年(1620年)〜
寛永6年(1629年)
大阪城築城工事 備中成羽藩 山崎家治 秀忠
 天守・本丸・二の丸の石垣構築に携わり才能を遺憾なく発揮している 築城工事で出た廃石を中之島の基礎として山崎家の大坂屋敷が存在
寛永1624年 江戸城の城郭建設、大名や旗本への屋敷地の下賜と割替え
寛永13年(1636年)〜
寛永15年(1638年)
江戸城外堀普請 備中成羽藩 山崎家治 家光
寛永16年(1639年) 肥後天草4万石に加増転封 肥後富岡城 山崎家治 家光
寛永16年(1639年) 富岡城の再建 肥後富岡城 山崎家治 家光
 乱後の天草は領内の2〜3割が荒れ地というほどに荒廃していたが、家治は富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発など復興に着手した。
寛永18年(1641年) 讃岐丸亀5.3万石に大幅加増転封 讃岐丸亀城 山崎家治 家光
寛永18年(1641年) 廃城の丸亀城に新城造営 讃岐丸亀城 山崎家治 家光
 丸亀城に新城造営を計画し許され、幕府より白銀300貫を賜り、かつ参勤交代を免除された。
慶安元年(1648年) 家治の死により家督を継 讃岐丸亀城 山崎俊家 家光
慶安元年(1648年) 隅田川以外での花火禁止 江戸中   家光
慶安4年(1651年) 俊家の死去により3歳で家督を継 讃岐丸亀城 山崎治頼 家綱
 叔父の山崎豊治に5000石を与えて後見人としている。8歳で死去 山崎氏は無嗣断絶で改易
万治元年(1658年) 備中成羽藩主 備中成羽藩 山崎豊治 家綱
5000石を治頼から分知されていた叔父の豊治は、幕府から旧領・備中国成羽5000石を与えられて、交代寄合として復活
万治2年(1659年) 宗家花火鍵屋 江戸中   家綱
 初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出した
寛文5年(1665年) 江戸中花火禁止令 江戸中   家綱
寛文10年(1670年) 江戸中花火禁止令 江戸中   家綱
 江戸中では、花火は全く行われないようになり、漸次地方へ移っていった。
宝永元年(1704年) 愛宕神社に花火を奉納  備中成羽藩 山崎義方 綱吉
正徳5年(1715年) 愛宕神社に観音石像奉納 備中成羽藩 山崎尭治 家継
享保元年(1716年) 愛宕神社に大鳥居奉納 備中成羽藩 山崎尭治 吉宗
享保18年(1733年) 隅田川川開きの花火 江戸中   吉宗
寛延4年(1751年) 打揚花火の開発 江戸中   家重
 以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている
寛政2年(1790年) 山崎候献立料理控帳 備中成羽藩 山崎義徳 家斉
 山崎候の献立料理控帳に「上げ火御上覧、同日川向こうにて砲術演習」の記述あり
文化7年(1810年) 玉屋が暖簾分 江戸中   家斉
 六代目の鍵屋の手代清吉両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになった。「たーまーやー」「かーぎーやー」
 鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれた。
 「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(錠)なし」
「玉屋だと またぬかすわと 鍵屋いい」
文政4年(1821年) がま池伝説 備中成羽藩 山崎義柄 家斉
 麻布古川あたりより始まった大火で、このあたりが殆ど焼けてしまった時、なぜか備中成羽(今の岡山県西部)の領主、山崎主税助(やまさきちからのすけ)の屋敷のみが類焼を免れました。
文政8年(1825年) 成羽藩船方役用帳 備中成羽藩 山崎義柄 家斉
  成羽藩の船方役用帳(渡船の日誌)に「花火があるから、船頭を増やす」との記述があり
天保14年(1843年) 玉屋が失火 江戸中   家慶
 玉屋は失火で家名断絶、江戸追放
 大名らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたという。これらの花火は武家花火と呼ばれる。
特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の3つの徳川御三家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があった。
 仙台の伊達家の武家花火も、伊達政宗以来の豪放な藩風を反映させ、仙台河岸の花火として江戸町人の人気を得、見物人が大挙押しかけ、藩邸近くの萬年橋の欄干が折れるという事故まで発生している
明治43年(1910年) 花火の製造許可制 東京   明治天皇
 花火の製造は打ち揚げには何の免許も規制も存在しなかったが、1910年に許可制となった。これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むことになる

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成羽藩山崎候の歴史
成羽藩山崎候の江戸屋敷の考察:位置@
成羽藩山崎候の江戸屋敷の考察:大きさA
成羽藩山崎候と愛宕花火
成羽藩山崎候の江戸屋敷の訂正
愛宕花火の参考文献

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