成羽愛宕大花火を始めた
成羽藩山崎候について調べてみました


山崎家治の華麗なる生涯
年  号 家治 出  来  事
文禄3 1594 0 父の家盛は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に対馬国に渡り、2年間輸送、警固の任務を果たした。この間に嗣子次男家治が対馬国で誕生する。
長男家勝は、石田三成の娘と結婚。関ヶ原で父弟と反し西軍につき以後、伊吹山へ隠棲。
慶長8年 1603年 9才 徳川家康が江戸に幕府を置き、江戸城の手伝い普請に父の山崎家盛は若桜藩より参加しました
慶長19年 1614年 20才 父の死去により若桜藩主を継いだ。
慶長19年 1614年 20才 大坂冬の陣では中之島に陣を布いた。このとき、弟の久家が戦死している
慶長20年 1615年 21才 大坂夏の陣では池田利隆隊に属して戦い、首級を6個挙げる活躍をした
元和3 1617 23 大坂の陣の戦功により因幡若桜3万石から備中成羽35千石に加増転封された。成羽時代には連島新田開発などに尽力した。
元和5年 1619年 25才 福島正則改易時には備後国三原城を守衛した。
元和6 1620 26 徳川幕府による第1期大坂城築城工事 半役2組 において、天主・本丸・二の丸の石垣構築に携わり才能を遺憾なく発揮している。なお、この築城工事で出た廃石を中之島の基礎として再利用している。そのため中之島には山崎家の大坂屋敷が存在していた。
寛永元年 1624年 30才 第2期大坂城築城工事 半役3組
寛永5 1628 34 3期大坂城築城工事 半役3組 大坂城築城工事に関わった大名は64家に及ぶ
寛永13年 1636年 42才 江戸城外堀築城工事 江戸城築城工事に関わった大名は112家に及ぶ
寛永15年 1638年 44才 肥後天草(富岡)4万石に加増転封された。乱後の天草は領内の2〜3割が荒れ地というほどに荒廃していたが、富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発など復興に着手した。
寛永18年 1641年 47才 讃岐西半分を治める讃岐丸亀5万3000石(丸亀藩)に大幅加増転封された。入国当時は寺院を宿所としていた
寛永20 1642 48 廃城となっていた丸亀城に新城造営を計画し許され、幕府より白銀300貫(約3億円)を賜り、かつ参勤交代を免除された。
寛永24年 1648年 54才 丸亀城の石垣の完成を見ずに亡くなった。
青が成羽時代                     『ウィキペディア』他より


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成羽藩山崎候の歴史
成羽藩山崎候の江戸屋敷の考察:位置@
成羽藩山崎候の江戸屋敷の考察:大きさA
成羽藩山崎候と愛宕花火
成羽藩山崎候の江戸屋敷の訂正
愛宕花火の参考文献

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