成羽愛宕大花火を始めた
成羽藩山崎候について調べてみました

成羽藩山崎候と浅野内匠頭

@成羽藩山崎候と浅野内匠頭
忠臣蔵の赤穂藩浅野内匠頭(長矩)の正室=阿久利姫(瑤泉院)は、三次藩主浅野長治の側室のお石の方(寿光院:可児才蔵孫)の三女であります。
このお石の方は山崎家の女であります。これを図にすると次のようになります。

A山崎候と瑞光院(ずいこういん)
山崎候が浅野内匠頭と親族である証拠が京都市にあります。それは京都市瑞光院前町から山科に移転した瑞光院(ずいこういん)と言うお寺です。
成羽藩を立藩(1617年元和3年)した山崎家治の父:家盛が若桜藩の時代に(成羽藩を立藩する4年前のこと)父・祖父の菩提を弔うために1613年(慶長18年)に開創されました。このことは京都市の案内看板にも明記されています。
京都駅から約5分でJR山科駅に着きます、山科駅を降りて北側の山の方に緩やかな坂道を10分程度歩くと民家の中に、瑞光院があります。
12月14日の山科義士まつりには公開してありますが、普段は非公開です。(電話予約可能)
入口には京都市の案内看板があります。中に入ると右手には浅野稲荷があります。左手を奥に進むと赤穂藩浅野内匠頭の墓(一周忌)、赤穂義士四十六士遺髪塔(討入後)、四十七士の墓(十七回忌)があります。瑞光院と山崎候と浅野内匠頭の関係を説明した看板もあります。
B山崎候の瑞光院に赤穂義士四十六士遺髪塔がある理由
1657年(明暦3年)山崎家断絶後(分家が成羽藩で復活している)、第二世陽甫(ようほ)和尚が播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩候の内室・瑤泉院(ようぜんいん)の祖父にあり、且つ浅野家遠祖の旧蹟たる等の因縁により、赤穂藩浅野家の祈願寺となる。と京都市の案内看板に書かれています。
C成羽藩山崎候と浅野内匠頭のまとめ
山崎候と浅野家は親族関係で、元々浅野家の京都の別邸があった場所に山崎候が甥っ子を開祖として祈願寺の瑞光院を創建している。また姪の娘が浅野内匠頭の正室になっている。丸亀藩で山崎家断絶後(分家が成羽藩で復活している)、赤穂藩浅野家の祈願寺となったということである。
G山崎候と瑞光院の関係表

D瑞光院の移転前の場所に瑞光院跡の碑がある
瑞光院は、1962年(昭和37年)に日本スクリーンの工場が大きくなり区画整理で京都市瑞光院前町から山科に移転しました。町名だけは瑞光院前町と残っています。
地下鉄鞍馬口を降りて鞍馬口通りを東に歩くと堀川通りに出ます。そこに大きな工場の日本スクリーンがあります。日本スクリーンの意向で道路沿いの隅に大きな石碑が建てられています。案内看板もあります。内容は瑞光院の看板とほぼ同く山崎家盛が建てたと書かれています。

E京都瑞光院跡碑の傍にある紫式部のお墓
瑞光院跡碑のすぐ傍に紫式部のお墓があるそうなので行ってみましょう。瑞光院跡碑から北に200Mほど歩くと島t津製作所の横に紫式部のお墓がありました。
山崎候が瑞光院を創建した時には既に紫式部のお墓はあったわけで、山崎候もお参りしたことではないでしょうかと古に思いを馳せました。
F三次市の瑤泉院(阿久利姫:山崎家お石の三女)の遺髪塔
山崎家のお石の方が側室としていた三次藩に行ってみましょう。三次市の鳳源寺に瑤泉院遺髪塔があります。まず三次市図書館に寄り、お石(寿光院)と瑤泉院(阿久利姫)の書物を探してもらいました。それからお寺に向かいました。尾関公園に車を置き、ここにも瑤泉院の大きな塔があります。鳳源寺に入ると、瑤泉院の塔、瑤泉院遺髪塔があります。また義士堂、浅野長治の墓があります。
以上、成羽藩山崎候と浅野内匠頭の関係の旅を終えます。
G山崎候と瑞光院の関係表

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