江戸城外堀普請を調べていたら外堀普請の前にも山崎候が天下普請に参加していたことがわかりました。 大阪城、江戸城外堀の天下普請には成羽藩から山崎家治候が参加していましたが、成羽藩の前の若桜藩に居た時にも家治候の父親の家盛候は江戸城の天下普請に参加していました。 慶長8年(1603) 徳川家康が江戸に幕府を置き、江戸城の手伝い普請を諸国の大名12家を組頭に行いました。山崎家治は組頭朝野幸長以下11家(有馬家、前田家、山崎家盛、池田長吉、輝政、中村家、堀尾家、蜂須家、山内一豊、中川家)で築城に参加しました。 千石夫(役高1000石につき1人の人足)なので、若桜藩の時は3.5万石→35人、成羽藩の時は5万石→50人の職人となります…。 なんでこんなに少人数なのに刻印石が多く残されているのでしょうか? よほど腕の立つ職人衆だったのではないでしょうか?